新しい「日本国王の庭」をアップしました。(2020年3月25日)

下記をクリックしてください。

日本国王の庭

 

 

醍醐寺三宝院庭園の「藤戸石」緑泥片岩(青石)。

藤戸石は表面が石英質で白く輝きを持ったところがまだ一部残っている。当初、据えられた時には、表面全体が白く光り輝いていたと思われる。私たち現代人にはなじみが薄くなってしまったが、月夜に妖しく光る藤戸石は、夜の庭園では貴重なものだったと思う。

 

 

太閤の庭「醍醐寺三宝院庭園」

 

「太閤」と言えばイコール「豊臣秀吉」と今では思われているが、「天皇」を退位された後に「上皇」と称されるのと同じように、昔は「関白」を退いた後に「太閤」と称された。
Wikipediaには、もう少し厳密に書いてある。
「太閤(たいこう)は、摂政または関白の職を退いた後、子が摂関の職に就いたものや、摂関辞職後に内覧の宣旨を受けたものを指す称号」とある。
しかし、近世以降、「太閤」と言えば、関白を甥の豊臣秀次に譲った後の秀吉を指すことがもっぱらで、このことから「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言まで生まれた。

 

「太閤の庭」はまた、「日本国王の庭」であると書くと意外に思われるかもしれない。
文禄の役の後始末で、明の神宗「万暦帝」は秀吉に国書を送り、その一文に「爾(なんじ)を封じて日本国王に為す」とあり、皇帝の臣下である国王とされたことに激怒した秀吉が国書を破り捨てたという話が一般的によく知られている。
しかし、これは後世の創作であり、実際には国書を下げ渡された堀尾吉晴が保管し、今に伝えている。私は現物を見たことがないが、重要文化財として大阪歴史博物館に所蔵されているという。
慶長元年(1596)9月1日、明の使節に対面した秀吉はご機嫌であり、冊封(さくほう)そのものに秀吉が反発した様子はうかがえない(島津義弘が息子にあてた書状より)。さらにルイス・フロイスによれば、「明の使いは明帝が秀吉を日本国王に封ずる旨を書いた板を掲げて堺から大坂に向かった」と伝えている。

これらのことから判断すると、秀吉は冊封を気にしていなかったか、無視していたことになる。秀吉の現世利益優先のドライな割り切りかもしれないが、真実はわからない。

以上のことから「醍醐寺三宝院庭園」はまた、「日本国王の庭」と言えるだろう。


「醍醐寺三宝院庭園」は藤戸石が特に有名なので、藤戸石について、白洲正子さんの「能の物語」から数カ所引用する。

「源平の合戦に、藤戸の渡しで先陣を務めた佐々木三郎盛綱は、その恩賞に、頼朝から備前の児島を賜った。
藤戸の辺りは、海岸線が入り組んでいて、藤の花房のように小島が連なっているところから、その名を得たというが、晴れやかなお国入りは、島めぐりを楽しんでいるような心地がする。」
ところが一転、そこで事件が起こる。
突然老女が出てきて、次のように訴えたのだ。
「このようないやしい海女の身で、うらみ言など申し上げる筋合いではありませぬが、武士だからと言って、罪科もない我が子を、海の底におしずめになるとは、あまりにも情けないお仕打ち。申し上げたところで、なんのかいもないと知りつつも、こうして出向いてまいりました。」


合戦の最中のことで忘れていたが、盛綱は確かに若い漁師を一人殺めている。
「源氏の軍勢は平家を攻めあぐね、わずか25町ばかり海をへだてて対陣していたが、平家はわれわれが馬で海を渡すことができないと見て、小舟に乗って扇で招き、しきりにからかう。われわれは地団太を踏んで悔しがったが、どうすることもできずにいた。」
そこで、盛綱は一人の若い漁師に馬を渡すことのできる浅瀬はないか尋ねた。男は浅瀬の存在に通じていた。盛綱は身近な家来たちにも内緒にして、その男と二人、密かに夜陰に紛れてしのび出て、海の浅瀬を見届けて帰って来た。

 

 

 

その時、盛綱は密かに考えた。この秘密を誰にも漏らさぬよう、不憫ではあるけれど男は生かしておけぬ。殺してしまおうと首筋にふた刀刺し、そのまま海に沈めて帰って来た。
「さては、汝の子であったのか。合戦の最中のことだから、それも前世の因縁とあきらめて、いまはうらみを晴らしてくれ。」


そのあと若い漁師の亡霊が現れ、当時の恨みつらみをるる述べた後、夜明けとともに消えて行くことになる。

「現在、藤戸の渡の周辺は埋め立てられ、昔の面影を失っている。が、浮洲の岩があったあたりには、柳の木を植えて、しるしに塚が建っている。その岩は高さ10メートルにおよぶ巨岩であったが、豊臣秀吉が聚楽第を建てた時、京都に移され、いま醍醐寺三宝院の庭の一角に藤戸石と称して立っている。」

 

別の資料によれば、藤戸石の高さは1.8メートル、幅1.1メートル。両脇に小さな石を置き、阿弥陀三尊を表している。
藤戸石は「天下の名石」として、室町後期に細川管領邸に現れ、京に上ったばかりの織田信長が奪う。将軍足利義昭のために造営中だった二条邸まで運んだ。しかもこの時、石を美しい布に包んで笛や太鼓ではやし、派手なパレードを繰り広げたと文献に記されている。

いま醍醐寺三宝院庭園で見ることのできる藤戸石は高さ2メートルばかりで、別の資料の記述通りと思われる。


信長が比叡山を焼き討ちしてからの庭園は、それまでの禅の庭に代表される「神仏の庭」からいわば「人間の庭」権力者が楽しむための庭に変化している。
鶴亀蓬莱や滝石組の手法は、信仰の対象ではなく、空間デザインの一手法に変化しており、当然のように見て楽しめるものに変わってきている。
その一つが石組みの変化で、旧来の庭師の技術を踏襲するのではなく、石そのものの大きさ・質感が重視され、上古の大岩信仰が復活したかのような錯覚にとらわれる。が、その目指すところは質的に大きく変化している。耳目に珍しく、来訪者を驚かすような大岩が珍重されるようになったとも言える。桃山文化の特徴である「豪華絢爛」は庭づくりにも言えることだ。

 

有名な醍醐の花見は慶長3年3月15日(1598年4月20日)に執り行われているが、その時には醍醐寺三宝院庭園はできていない。醍醐寺三宝院庭園の基本設計は秀吉本人が行い、醍醐の花見の一か月後に作庭が開始されている。
その年慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉は亡くなった。そのあとは醍醐寺座主の義演(ぎえん)が作庭の総責任者となっている。義演は大変筆まめな方で、一級史料「義演准后(ぎえんじゅごう)日記」を後世に残している。

「義演准后日記」によれば、作庭は庭師「賢庭」となっている。賢庭の関わった庭園は、二条城二の丸庭園、南禅寺金地院庭園、大徳寺孤蓬庵などで、小堀遠州とのかかわりが深いことをうかがわせる。


重森千靑先生の講座資料(2019年10月17日)から引用する。
「醍醐寺三宝院庭園の作庭当初、与四郎兄弟という名前が出てくるが、程なくしてこの名は日記から姿を消す。そして新たに登場するのが賢庭である。
全体の石組み手法など細部を見ると与四郎兄弟と賢庭との差異はなく、卓越した技術を持った与四郎兄弟が、三宝院作庭中に後陽成天皇から賢庭という名前をいただいたのではないかと考えられる。」

 

<参考資料>
「能の物語」白洲正子(講談社文芸文庫)1995年刊
臨地ゼミ「醍醐寺三宝院庭園」重森千靑(2019年10月17日)

 


国宝の唐門。

唐破風は正面ではなく、左右にある「平唐門」という。

 

鶴亀蓬莱の形式を採用。左が亀島で右が鶴島。

亀島の少し右手前に亀頭石が見える。

 

三宝院の三段の滝だが、二段目が隠れて見えにくい。

山形有朋の別邸「無鄰菴庭園」で7代目小川治兵衛が採用したことで有名。

 

須弥山石組み。

蓬莱山が道教の思想に基づくのに対し、須弥山は仏教思想によるもので、世界の中心となる山を表す。

 

三宝院から見た国宝の唐門。

平成22年に修復され、桃山時代の豪華絢爛な気風をよく表している。

 

入って手前にある築山。

遠近法を採用し、二つある遠山石は奥の方が小さい。

 

鶴亀蓬莱の鶴島。

羽石が松の根元にあるので、比較的わかりやすい。

 

手前に三石ある通称「賀茂の三石」の一つ。

鴨川の流れの速いさまを表す。石の模様の面白さで魅せるのは桃山時代の庭園の特徴の一つ。

 

賀茂の三石。

中の石は川のよどんだ状態を、右の石は川の水が割れて砕け散る様子を表している。

 

三宝院の屋根の上に鳳凰ではなく、カラス。

偶然、撮影できたが、しばらく動かなかった。