青郷(あおのごう)駅から高野分教場へ向かう途中、古い大木の根元にお地蔵さんの祠を発見した。

地蔵信仰もまた観音信仰と対になった信仰で、もともと性別のない菩薩に男性の衣を着せて地蔵菩薩、女性の衣を着せて観音菩薩とする風習が広まった。

古木の向こう側に隠れているのが「青葉山」で神奈備(かんなび)と思われる。

 

 

第29番「松尾寺(まつのおでら)」

 

1番からでなく29番から始めるのには理由がある。
「日本国王の庭」で金閣寺を扱っているが、水上勉のドキュメンタリー小説「金閣炎上」新潮社(1979年7月)刊行からちょうど40年が経過する。最初に読んだときは途中で投げ出したが、再度読んでみて今回は舞鶴の地理がすっかり頭に入っているので、最後まで興味深く読めた。現地へ行って初めてわかることもある。


1976年だと思うが、成城学園の水上勉邸を訪ねたことがある。当時は今のように「個人情報保護法」もなく、成城学園の文豪宅訪問ツアーがあり、大江健三郎や大岡昇平などのお宅を勝手に訪問して、いくつかのお宅訪問では呼び鈴を鳴らして文豪に玄関先まで出てきてもらった。主に成城学園駅の北側エリアで、大岡昇平宅ではご本人が玄関から出てきて車に乗り込むところで、「ご苦労様です」とご挨拶なさっていた。


文豪宅訪問ツアーの解散後、赤塚氏と大澤氏と私の3人で成城学園駅の南側に出て、ツアーに含まれていなかった水上勉邸の前まで来た。赤塚氏が勝手に呼び鈴を鳴らし、「いきなりはまずいだろう」と私は慌てたが、対応の女性が出てきて「先生は取材で留守です」と言って玄関を閉めた。多分その時の取材が「金閣炎上」ではないかと推測する。

 

6月12日(水)京都駅を8時のバスに乗り込み、2時間で東舞鶴駅へ。東舞鶴から青郷(あおのごう)へはJR小浜線に乗り、無人駅の青郷で降りた。難読の「青郷」は、俳優の「綾野剛(あやのごう)」と関連付けて覚えた。

 

 

 

青郷小学校高野分校まで30分、そこからさらに30分強で松尾寺に到着する。途中、熊野神社で「熊出没」の看板に出会ったり、日本軍関係の標識を見つけたりして、寄り道を楽しんだ。

なお、白洲正子さんの「西国巡礼」によれば、松尾寺の隣にかつて分校があり、そこで水上勉は昭和19年春から20年秋にかけて教鞭をとっていた。ということは今の分教場とは場所が違うことになる。


松尾寺は慶雲5年(708)に中国から渡来した威光上人が開基。本尊は馬頭観世音菩薩坐像。

 

松尾寺からの帰路、山を下りて国道に出たあたりで激しく雨が降り出し、木陰で途方に暮れていると、一台の車がすっと私の近くで止まり、「乗っていきませんか?」と男性ドライバーが声をかけてきた。隣には美しい女性が乗っている。多分観音様だと思う。
「すみません。助かります。」と言って車に乗り込んだ。2人は青葉山に登るつもりで、登山靴などが後部座席に転がっていた。「天気予報が外れて急に降ってきて、私たちも登山中止です。」と観音様が話しかけてきた。「観音霊場巡り」をしているので、地獄で不空羂索(ふくうけんじゃく)観音に出会ったようだ。


不空羂索観音の羂は、鳥や獣をとらえる網のことであり、索は魚を釣る糸のことだが、車にピックアップされるとは、正に地獄で観音様に出会った心地がした。これも西国巡礼の功徳であろうと、こういう時だけ信心深くなる。

 


東舞鶴で1時間近く時間が空いたので、赤レンガパークへ向かう。北吸トンネルは明治37年(1904)に軍港引き込み線として設けられた。今は自転車・歩行者道路となっている。

 

無人の青郷駅から歩きだすと、すぐに青葉山が迫ってくる。

 

青郷小学校高野分校(閉鎖中)1983年築。

水上勉が教鞭をとった校舎とは別のようだ。

 

今寺の熊野神社鳥居に出た。

「熊出没注意」の看板はこのあたりにあったが、どうやって注意するのかわからない。

 

林道を歩いてやっと松尾寺に到着。

 

本堂と大師堂を結ぶ屋根付き廊下に魅せられた。

 

急勾配の階段と仁王門。

 

旧海軍の軍需品や水雷倉庫として明治35年(1902)から明治36年(1903)に建てられた。そのうち8棟が国の重要文化財に指定されている。

 

この大木の根元にお地蔵さんの祠があった。

 

分校から高浜方面を望む。

複雑に入り組んだ高浜の様子が見て取れる。

 

SM24Z舞鶴要塞第二地帯と読める。

戦時中をしのぶ数少ない物証。

少し調べたが、標記の意味は解らない。

 

お寺に鳥居。もう見慣れた風景でしょう。

 

1730年に建てられた本堂に、覆いかぶさるような青葉。

 

無人の「雨のステイション」荒井由実