日本国王の庭「金閣寺」

葵祭の斎王代が流し目をした瞬間をとらえた。

 

 

 

京都市考古資料館速報展示(2018年10月13日~12月27日)
鹿苑寺(金閣寺)南池跡の調査

 

平成28~30年度の約2年間をかけて、金閣寺の南池跡の発掘調査が行われ、金閣寺には安民澤(あんみんたく)、鏡湖池(きょうこち)の他に3番目の池として南池があったことが確認された。
以下は京都市考古資料館の速報展示の資料である。

 

   鹿苑寺(金閣寺)は、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358~1408)の北山殿に始まります。北山殿は、応永4年(1397)に西園寺家よりこの地を譲り受けた義満が山荘として造営したもので、政治の中枢であるとともに、北山文化の象徴ともなりました。義満の死後、多くの建物は息子・義持により他所に移築されていきました。義満の遺言に従って菩提寺とされ、法名にちなんで鹿苑寺と呼ばれることとなります。
  その後は応仁・文明の乱(1467~1477)などによって、金閣  (舎利殿)を残し、荒廃が進みましたが、江戸時代に再興されて現在に至ります。金閣や鏡湖池の秀麗な姿は、北山殿当時の様子を今に残すものとして、内外の観光客に親しまれています。

  鏡湖池の南側に、堤状の高まりに囲まれた水のない池状のくぼみがあります。ここは江戸時代の絵図などにも描かれていますが、いつの時代にどんな目的で作られたのか、わかりませんでした。

 

  宗教法人鹿苑寺では、ここを「南池跡」と名付け、境内の整備とともにその実態解明のために発掘調査を計画し、(公財)京都市埋蔵文化財研究所が平成28~30年度の約2年をかけて調査を実施しました。

全体の造成
 南池跡の旧地形は北から南に下がる谷地形と考えられ、南端(24区)では3m以上に及ぶ盛土により、南池跡の全体地形が作られています。この造成は室町時代中頃(14世紀末)に行われたことが出土遺物からわかりました(14区)。
南池跡
 中央平坦部はこの造成の盛土で形成されています。漏水を防ぐための粘土層はなく、州浜や護岸石、景石の痕跡なども認められませんでした。
周辺の堤
 東・西・南に築かれている堤は上・下2時期の盛土により形成されています。下の盛土は全体の造成盛土と同じ室町時代中頃(14世紀)。上の盛土は室町時代後半(15世紀後半)に、応仁・文明の乱に際して境内が西軍の陣地となったことから、嵩上げされた土塁状に造り変えられたとみられます(1・11・15・24区)。
北東部の高台
北東部には池の底面から0.5mほど一段高い平坦部(高台)があり、礎石建物(南北6m、東西5.4m)とその東側に庭の一部とみられる三和土(たたき)などがみつかりました(9・10・18区)。

調査の成果
 南池跡は室町時代中頃(14世紀末)に北山殿の造営とともに、大規模な造成を行って形成されたことがわかりました。周辺の堤や島状高まり、北東部の平坦面(高台)の礎石建物なども同じ時に築造されています。南池跡は水が張られた形跡がありませんでしたが、全体の構成から見て、未完の庭園であった可能性が考えられます。
 今後北山殿の全容を解明するうえで、今回の成果が貴重な基礎的資料として、新たな北山殿像が描かれることになるでしょう。