大池寺(だいちじ)参道

 

 

大池寺(だいちじ)

 

大池寺は、天平14年(742)諸国行脚の高僧・行基菩薩がこの地(現在の滋賀県甲賀市水口町名坂)を訪れた際、日照りに悩む農民のため、灌漑用水として「心」という字の形に四つの池を掘り、その中央に寺を建立し、一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置したと伝承されている。

その後、鎌倉期に禅宗が日本に伝わり、東福寺開山聖一国師の孫弟子である無才智翁禅師が禅宗に改宗、天正5年(1577)に戦国の兵火に会い、境内全域が焼失した。幸い行基菩薩の作なる仏像のみが助け出され、その後約90年間、草庵に安置されていた。


寛文7年(1667)京都花園妙心寺の丈巌慈航禅師が当地を訪れた際、草庵の仏像を見て寺の再興を決意、山号寺名を周囲に大きな池があるのに因み「龍護山大池寺」と改名した。
大池寺の再興に尽力したのが、後水尾上皇、伊達宗房や織田主水正信であり、中でも織田氏は当地の地頭で、織田信長の甥にあたり、大池寺再建のため多くの寄進をし、大池寺の開基となった。

 

大池寺蓬莱庭園は江戸初期寛永年間に小堀遠州の作として伝えられ、サツキの大刈り込み鑑賞式枯山水庭園である。
書院前方正面の二段刈り込みと左右の大刈り込みは大洋の大波小波を現わし、白砂の水面上に刈り込みを以って宝船を浮かべ、中に七つの石と小さな刈り込みで七宝と七福神を象徴している。(大池寺パンフより)

 

 

 

大池寺の近くにある水口(みなくち)城は、三代将軍徳川家光が寛永11年(1634)、京都への上洛の際の宿館として築かせた。作事奉行は小堀遠州が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。
徳川家光は生涯3度の上洛を果たしているが、寛永11年が最後の上洛になる。また、小堀遠州は正保4年(1647)に69歳で没している。

 

大池寺の再興は1667年であり、小堀遠州没後20年が経過していることになる。寛永年間に大池寺再興の前段階として、書院庭園部分だけが先に作庭されたとしても、幕府との関係の薄いところに小堀遠州が手を出すとは思えない。したがって、作庭が小堀遠州である可能性は低いと思われる。


もし小堀遠州が手掛けるとしたら、それは水口城内の御殿の庭としてだろう。御殿の庭を大池寺に移設したというなら、それなりに納得できる。ただ小堀遠州が手掛けるとしたら、やはり金地院の「鶴亀の庭」のように重厚な大石を配置するのではないかと思う。近江は大石がふんだんにある土地で、小堀遠州がわざわざ大石を使わない庭を造るとは思えない。

 


近江鉄道の水口(みなくち)城南駅を降りて少し歩くと、お城が見えてくる。水口城跡だが、現在は「水口城資料館」になっている。

 

40名ほどの団体が到着したので、混雑を避け時間つぶしに周囲を散策した。琵琶湖の形を模した回遊式庭園が前庭にあって、右手の松は唐崎の一つ松かもしれない。

 

順路に沿って「今池」周辺を歩いていたら、道が途切れ、沼に足を取られそうなので引き返した。

 

宝船を模した刈り込み(サツキ)。

少し曇ってくれたほうが植栽は撮影しやすい。

 

ツツジがもう少し咲いてくれるときれいに撮影できるのだろうが、ツツジの満開はもう少し先か?

 

資料館から15分ほど歩くと、大池寺の4つの池の一つ「弁天池」に出会う。ちょうどスイレンが咲いていて、八幡神社の境内なのに極楽浄土を思わせる。

 

参道の傍らには立派な松が枝を伸ばしている。

金閣寺の「陸舟の松」より立派で、樹齢約350年の「臥龍の松」というらしい。

 

カエルの信楽焼。

甲賀は信楽焼でも有名だ。

 

額縁効果を狙った一枚。

思ったほど効果は出ていない。なぜだろう?

 

手水鉢も風情があってよい。

住職さんは団体相手に本堂でお話しされていて、大変正直な方で、行基作と伝わる釈迦如来坐像は調査の結果、2代目ではないかとのこと。