とんちの庭「一休寺」南庭
石の代わりの植栽(つつじ)が美しい。
もともと禅寺の南庭は「晋山式」のため広い空間が必要で、初期の禅寺は神社の清浄な白砂となんら変わらない白砂一色だったと思われる。
とんちの庭「一休寺」
今では一休寺で知られる「酬恩庵一休寺」の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師が中国で禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが初めてである。しかるにその後、元弘の戦禍にかかり復興ならずにいたものを六代の法孫にあたる一休禅師が康正年中(1455~56年)宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に酬いる意味で「酬恩庵」と命名した。
一休禅師はここで後半生の生涯を送り、81歳で大徳寺住職となった時もこの寺より通われた。文明13年(1481)11月21日88歳の高齢でもって当寺において示寂され、遺骨は当所に葬られたのである。(一休寺パンフより)
方丈と枯山水庭園(名勝指定)
当寺方丈は1650年に加賀三代目の大名前田利常公により寄進をされたもので現在、国の重要文化財に指定されている。正面奥の室中には一休禅師をご本尊としておまつりし、内部襖絵は江戸時代の絵師、狩野探幽の筆による。
方丈周辺には庭園が広がり石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の三名合作といわれる江戸初期の禅院枯山水庭園である。北庭は枯滝落水の様子を表現した蓬莱庭園、東庭は十六羅漢の庭、南庭はサツキの刈込と白砂の庭として、北、東、南三面の庭よりなる。(一休寺パンフより)
パンフの文章は写しにくく、一部変えてあるが、国の重要文化財の前の読点はそのままにした。多分、ここを強調したいのだろう。
石山丈山は詩仙堂で、松花堂は弁当でよく知られているが、佐川田喜六は知らない人なので調べたら、大体次のような人らしい。
天正7年(1579)生まれ寛永20年(1643)没。知勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、書は松花堂昭乗、漢学は林羅山に習ったといい、友人・知人に石山丈山などがいる。
これで3人合作の意味がなんとなく分かるだろう。
江戸期の庭園は室町期と違い、禅寺であっても中国仏教の影響が弱まっているように見える。本来「鶴亀蓬莱」であるべきものが崩されていて、逆にそれが庭園の美を一層際立たせていると思う。一休寺では鶴亀の代わりに十六羅漢が東庭に表現されているという。また南庭では石の代わりに植栽(つつじ)が効果的に使われている。
琵琶湖のほとり観音正寺で触れた六角佐々木氏の六角承禎(じょうてい・よしかた)の墓が一休寺にありびっくりした。六角承禎は織田信長に敗れたが、その後もしぶとく生き残り、豊臣政権下の慶長3年(1598)78歳で死去した。またその子孫は江戸幕府の旗本として生き残り、戦国末期の様子を現代に伝えている。
まず一休さんが出迎えてくれる。
一休さんは実は後小松天皇のご落胤であったことが書かれている。宮内庁の管轄とは、どうも本当らしい。
東角から南庭を眺める。
こちらを亀島と見立てることもできるが、ここは一休寺の見立てに従っておこう。
蓬莱山と枯滝落水石組。
透明な水が落ちている様子を幻視することができるだろう。
ご家来衆、早く虎を追い出してください。
すぐに縄で縛りあげますから。
一休宗純の像。
下がり眉が誰かに似ているような気が…
禅問答における有名な言葉。
所詮この世は、あの世へ帰るまでの一休み。
方丈へ向かう参道は清浄に保たれている。
拝観順路に従い、まずは南庭から入る。
白砂とつつじのコントラストが何とも言えない。
東庭の十六羅漢の庭。
亀島と見立てた場合、その先にあるこちらを鶴島と見立てることになる。それらしく見えるが…
別角度から見た蓬莱枯滝落水石組。ここに宝船があれば、大徳寺大仙院庭園と同じく鶴亀蓬莱庭園となる。
狩野探幽の襖絵。
レプリカかもしれないが、そこはとんちで…
どうしよう。渡れないって。
そこはとんちで、真ん中渡れば…
帰路、こんなものが。
一休さんの子供の頃か?
近鉄新田辺駅への帰路、ドクダミが咲いていた。
南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…
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