花の寺「勝持寺」

中央の上部に何か飛翔体が映り込んでいる。

アサギマダラだ。

西行桜の化身か、西行自身の化身かわからないが、この後すぐ、一気に天空に舞い上がっていった。

 

花の寺

 

古塩山の麓には、大原野神社がある。平安遷都にあたり、藤原氏が奈良の春日大社を勧請したもので、歴代の朝廷の崇敬を集めたが、今はその役目を終え、大原野の産土神として、村の片隅に静かに憩っている感じがする。その感じが何とも清楚で美しい。境内には桜ともみじが多いが、訪れる人は稀で、王朝の昔を憶うのにふさわしい環境である。

 

大原や小塩の山も今日こそは 神代のことも思いいづらめ(在原業平)

 

(中略)
かつて熱烈な恋をした業平と高子の憶い出を「神代のこと」にかけており、業平は少しも忘れていないことを訴えたかったに違いない。大方の学者は、厳粛な行啓の際に、そんな不謹慎な歌を詠むはずがないといわれるが、あえて禁忌を犯すところが一代の数寄者たる所以であろう。この恋愛のために、業平は藤原氏にうとまれ、東下りの旅に出るはめになったのだが、大原野神社を訪れる度に、私はこの歌を思い出さずにはいられない。(「西行」白洲正子著新潮文庫1996年)

 

5年ほど前、西行について集中的に調べた際、初めて白洲正子さんの著作に出会った。最初は読んでいてはぐらかされる感じがして、いらいらしたものだが、慣れてくるにつれ、深い教養に裏打ちされた確かな力量に敬服せざるを得ないと思うようになった。多分誤解されている方も多いと思うが、白洲正子さんはわざと結論をはぐらかしているのではなく、様々な史料の取捨選択に迷って、敢て結論を急がない文体になったのではないかと推察する。考えるということは結論を急ぐことではないと思い知らされる文体ともいえる。

 

西行は出家した後、しばらくこの寺にいたと伝えられている。西行の遺跡は京都の至るところにあるので、最初はどこに住ん

 

 

だかわからないが、花の寺は名だたる桜の名所であり、隠棲するにはふさわしい土地だから、杖を止めたことは事実であろう。

西行庵は、今は方丈の庭内に移され、おきまりの西行の彫像が祀ってあるが、もとの庵室は200メートルほど登った山上にあり、礎石だけが辛うじて残っているに過ぎない。

 

(中略)
しずかならんと思ける頃、花見に人々まうできたりければ
花見にと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜の科には有りける

(中略)
「西行桜」の能は、この歌をテーマに、老木の桜の精が現れて、「当たら桜の科」とは心ない仰せである、無心に咲いている桜に罪はないものを、と恨みを述べる。
シテは桜の精、ワキが西行で花見の人々(ワキヅレ)が庵室をおとずれ、迷惑に思った西行がこの歌を口ずさむ場面にはじまる。やがて夜になって、一同が寝静まった後、作物(つくりもの)の山の中から、老木の桜の精が現れ、しきりに恨みごとをいうが、最後には西行の知遇を得たことを感謝して、暁の光とともに消えて行く。同じく西行の歌をテーマにした「遊行柳」と一対をなす曲で、「老木に花の咲く」風情を表現しているのが美しい。


西行を扱った能は多いが、主人公にした例が一つもないのは、西行という人間が不可解で、とらえにくいからだと私は思っている。それについては、また触れる折もあろうが、「西行桜」の場合も、春の夜の夢の中に、桜の精と西行が一つにとけあって、花の賛歌を奏でているように見える。作者の狙いもおそらくそこにあったので、桜の花を愛し、桜の中に没入しきった人間の、無我の境地を描きたかったのではあるまいか。(「西行」白洲正子)

 


里山の景色。

都会に住んでいるとこういう景色にあこがれる。

生活するには大変だと思うが。

 

大原野神社に着いた。

 

有名な千眼桜。

 

眷属の神鹿。

 

花の寺「勝持寺」山門。

 

鏡石と姿見池。

ここで髪を下したと伝わる。

 

西行像。

室町時代の作。像高55センチ、寄木造で漆塗りされている。

 

花いっぱいの大原野と書いてある看板。

様々なかかしが並んでいる。

ハウルの動く城のかかしのように動き出しそうだ。

 

ちょうどカキツバタとキショウブが見ごろだった。

 

春日大社のようだ。

 

花の寺橋を通って、寺域に入る。

 

西行桜。

 

謡曲は戦国大名のたしなみでもあった。

信長も謡曲「敦盛」を舞ったと「信長公記」にある。

 

帰りに、石の寺「正法寺」に寄ったが、後楽園に関係のあるものが見当たらなかったので、今回は割愛する。