青岸寺庭園

 

 

青岸寺

 

 中世、南北朝廷文年間(1356~1361)この地には当時の近江守護職であった佐々木京極道誉によって建てられた米泉寺(べいせんじ)があったが、永正の初め(1504)の兵火で焼失した。その時、本尊聖観音像のみが難を逃れたので、その後小堂にて長く祀られることになった。


 下って江戸時代、彦根大雲寺三世要津守三(ようしんしゅさん)和尚たまたま当地を遊行せし折、朽ちた小堂に祀られた観音像を拝し、ひどく心を痛めて慶安三年(1650)再興を期して当山に入ったが、時に敦賀の在人、伊藤五郎助が師の願行に打たれて尽力を惜しまなかったので殿堂、伽藍はたちまちにして建立した。しかし、五郎助は程ない明暦2年(1656)に卒したので守三和尚これを悼んで氏の功績を永く伝えんとして諡(青岸宗天)を以って寺名を青岸寺とした。


(中略)
 庭園は守三和尚入山とともに築庭されたが、後に井伊家欅御殿に楽々園が築かれるに及んで石が取り出されて消滅した。現在の庭園は当時三世興欽(こうきん)和尚が大雲寺より隠棲するにあたって楽々園の作者、香取氏に命じて延宝六年(1678)に完成したもので興欽和尚の意図は観音様のお住まいになられる補陀落山の世界を表現することにあった。
<吸湖山青岸寺パンフレットより>

 

 

 

琵琶湖周辺には観音信仰のお寺が多い。信長の宗教弾圧にも、村人たちが密かに観音像を寺から持ち出し、地中に埋めて難を逃れたという逸話も残る。それから400年以上の長きに渡って、村人たちに守られて今に至るということは、信仰の篤さも当然のこととして、確かな経済力がこの地の人々には培われてきたという側面もあると思う。お金のないところに文化は育たないというと身もふたもない話になるが。
 
 西国三十三所観音信仰の話は聞いたことがあるだろうか?
 この三十三という数字には意味があり、観世音菩薩が33の姿に身を変えて人々の心の悩みや苦しみを救うと説かれ、観音様にお参りし手を合わせることで私たちを救ってくださるという信仰が生まれた。
 西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路で、近江には正法寺(岩間寺)、石山寺、三井寺、宝厳寺、長命寺、観音正寺の6か所の観音霊場がある。
 
 西国三十三所第一番札所として熊野那智の青岸渡寺が有名なので、近江の青岸寺もその関係かと思っていたが、パンフを読んで関係ないと知り、意外だった。
 この庭園は重森千靑氏の講義で何度も出てきて知っていたが、今回初めて訪問する機会を得た。実に面白い庭園であった。江戸期の庭園の面白は「崩し」にあると思う。
 庭園の歴史では、日本庭園の様式は室町時代、もしくは安土桃山時代でほぼ出尽くしており、江戸期以降の庭園様式に見るべきものはない。とされているようだが、どうしてどうして、江戸期以降の庭園は「崩し」の美学で貫かれている。


青岸寺の本堂から見た庭園全景。

一見岩がごちゃごちゃしている印象を受ける。

 

水を表す白砂の代わりに苔が一面を覆っている。

雨が大量に降ると、ここに池が出現するというから驚きである。池泉庭園に早変わりだ。

 

一段高いところに「六湛盦(ろくたんあん)」と呼ばれる書院がある。書院から庭園を眺める。

 

よく見ると、奥に三尊石組みがある。

中尊が尖っていて、おもしろい形をしている。

 

降り井戸形式の蹲(つくばい)。

雨が大量に降ると井戸の水位が上がって、庭園に水を供給するという。

 

石徳五訓。

同じものが京都大原野「正法寺」にあったので驚いた。