空也上人立像(鎌倉時代)重要文化財

念仏を称える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承のままに、洗練された写実的彫刻である。

 

 

第17番「六波羅蜜寺」

 

六波羅蜜寺の正式寺名は「補陀落山 六波羅蜜寺」という。
補陀落(ふだらく、梵:Potalaka)は、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。インドの南端の海岸にあるとされた。補陀落山(ふだらくせん)とも称す。

 

浄土と言えば阿弥陀如来のおわす「極楽浄土」が有名だが、日本の仏教では仏の数だけ浄土があると言われていて、例えば、瑠璃寺のパンフレットには「毎朝日が昇ってくる東方には瑠璃光浄土という静かで清らかな世界があり、そこの主が薬師如来である」と書いてある。


「補陀落浄土」はインド南端の海岸の山なので、日本から見たら阿弥陀如来も観音菩薩もどちらも「西方浄土」の仏様と言える。こんなことを書くのは「西国巡礼」の一説で白洲正子さんが「西国巡礼の名称も東国に対する西国を意味するといわれている。が、それには観音の浄土が西方にあるという、古くからの信仰も含まれていたのではないだろうか」と主張されていたからだ。観音様の浄土が南だろうと西だろうと、誰もそんな細かいところまで気にしないと思うが、それでも気になったので書いておく。

 

10年ほど前のことなのでうろ覚えだが、上野の森美術館で「聖地チベットポタラ宮と天空の至宝」とかいう展覧会をやっていて見に行ったことがある。チベットの観音菩薩(十一面千手千眼観音を初めて見たような記憶)などの仏像展示が行われていた。チベットから見たらインドは明らかに南で、観音信仰が盛んなのもうなずける。
ポタラ宮は観音菩薩の化身とされる歴代ダライ・ラマの宮殿で、政教一致のチベットにおいて、まさに政治と宗教の中心とされた宮殿だ。日本人がなんとなくチベットに親近感を抱くのもまた、観音信仰という共通点があるからではないだろうか。

 

井上靖の短編小説「補陀落渡海記」では観音浄土が南方海上にあることを前提に話が進められていて、山が迫り南に海が広がっている地方では、チベットと同じく南に浄土があるという発想なのだと妙に納得したことを覚えている。「補陀落渡海記」については、別の機会に詳細を語りたい。

 

清水から六波羅蜜寺へは歩いて20分とはかからない。その名の示す通り、ここら辺は平家の六波羅第の跡で、鴨川から鳥辺山(とりべやま)へかけて、一門の邸が五千二百余も並んでいたという。が、それ以前は先にも記したように葬送の地で、貴族の陵墓は山寄りに、庶民の墓地は川寄にあった。それは墓地というよりなかば風葬に近いものであったろう。天歴5年(951)、都に疫病が流行った時、空也上人が、そういう土地を選んで寺を作ったのが六波羅蜜寺のはじまりで、上下を問わず、あらゆる人間の救済を目的とした。
空也は、常に南無阿弥陀仏を唱えて、民衆の中にはいって行ったので、市の聖、阿弥陀の聖などと呼ばれた。この寺の空也上人の彫刻は、そのありのままの姿をうつしている。

 

 

宝物殿の中には、藤原初期の十一面観音をはじめ、おなじみの運慶、湛慶、清盛など、この寺と縁の深い人々の彫像が並んでいる。
宝物殿の中でも「蔓掛(かずらかけ)地蔵」と呼ばれるお地蔵さまは、本尊の十一面観音と並んで、藤原時代の傑作だが、左手に長い女のかもじを持っており、それについては一つの哀れな物語がある。いつの間にかこの地蔵が、観音と並んで、本尊のようになったのも、六波羅という土地柄、自然な成り行きであろう。


地蔵信仰にはいつも暗い、哀れなものが付きまとうが、そういう人々の救済を目指して、一生を旅に送った空也上人は、いわば地蔵の化身みたいな人物ではあるまいか。

地蔵が観音信仰から生まれたといっても、詭弁ではないと思う。実際に地蔵の彫刻が現れるのもそのころだが、その柔和な姿は観音に酷似しており、ただ僧形をしているだけの違いしかない。観音と地蔵がしばしば一緒に祀られているのも、両者の間に本質的な区別が認められなかったためだろう。
長谷寺では、錫杖を持った観音に出会ったが、神仏だけではなく、仏教の中ですら交じり合っているのが日本の宗教だ。そこに割り切れないものを見るより、それはそういうものとして、全体を受け取るべきであろう。
日本最初の仏と伝えられる飛鳥大仏が、地蔵菩薩に変身するまでには、実に長い年月を要したのである。

 

本堂の南側には大きな石仏がある。そのほかにも清盛の供養塔や、石地蔵の群れが並んでいるが、中でも阿古屋の塚と伝えられる石塔は美しい。
源平の合戦に敗れた悪七兵衛景清の行方を、五条坂の遊女阿古屋に問うが、なかなか口を割らない。ついに琴攻めの拷問に会うという話は、歌舞伎や浄瑠璃でおなじみだが、学者の説によると、アコヤというのは、火葬をするとき、棺に火をつけることを下火(あこ)といったところから、その場所を示す名前かもしれないということだ。が、やわらかい中に、犯しがたい風格を持つこの塔を、私はやはり阿古屋の墓と思いたい。ちなみに、その台石の方は、古墳時代の石棺の蓋を再利用したものとかで、それもなかなかどっしりした、いい形の石である。

 

六波羅蜜寺から松原通に戻り、少し東に歩いたところに六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)があるので、足を延ばした。小野篁(おののたかむら)が冥界に通った井戸で知られるが、このあたりが京都の火葬地であった鳥辺野(とりべの)の入り口にあたり、現世と異界の境にあたると考えられていたからだろう。境内は人の気配がなく、昼間なのに異界の妖怪がそこらにいるような雰囲気が漂っていた。もしかすると今回撮った写真に何か異界のものが映り込んでいるかもしれない。

 

<参考資料>
西国巡礼(白洲正子)講談社文芸文庫1999年

 


六波羅蜜寺の本堂は、貞治2年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたものを昭和44年(1969)解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛な当時の姿をしのばせる。

 

どこかで見た形だと思ったら、以前大津で似たものを見ていた。鎌倉時代と思われるが、証拠がない。

 

以前に撮った写真で、お前立の十一面観音立像。

この時は宝物館に入って、空也上人立像などを見学した。

 

境内に足を踏み入れると、独特の空気感が漂う。

異界への入り口が近い。

 

写真を撮った時は気が付かなかったが、ポスターに「飲酒運転厳禁」と書いてある。

 

左が平清盛の供養塔。

右が阿古屋の墓(供養塔)。

鎌倉時代のものと思われるが、よくわからない。

 

<参考>大津関寺の牛塔(鎌倉時代)。

高さは3.3メートル(重要文化財)

 

すぐ近くにある六道珍皇寺に寄り道した。

ここは六道の辻にあたる。

 

六道珍皇寺の本堂。奥に小野篁が利用した井戸があるらしい。公式には「冥界への入口」と書いてある。

 

長い年月をかけて供養のための石仏群が集まったのだろう。8月7日から10日は「六道まいり」で大勢の人が御魂を迎えるために訪れる。