善峯寺(よしみねでら)の正式名称は京都西山(にしやま)善峯寺。

善峯寺から西山を望む。

 

 

第20番「善峯寺」

 

私はここで、主に3つのことを書きたいと思っている。
一つは桂昌院、二つめは在原業平でどちらも小石川後楽園ガイドには必須の知識になるだろう。

三つめは伏見桃山城の近くに住んでいたころ、西方を見るといつも目立つ山容があり、ポンポン山というと教えられた。西方浄土のようで、いつかは登りたいと思っていたポンポン山だが、善峯寺北門から登るルートがあると知った。これは登らないわけにはいかない。ポンポン山という言い方が可笑しく「ぽんぽこ山」なら、タヌキが出るとわかるが、「ポンポン山」にはどんな妖怪が住んでいるのか、そこにも興味がわいた。


かようなわけで、「善峯寺」そのものは軽く記述するにとどめる。観音霊場巡りとしては何とも頼りない次第であるが、ただ巡礼すればよいという白洲正子さんの言葉に励まされてこれを書いている。

 

善峯寺は平安中期の長元2年(1029)源算上人により開かれる。
西国三十三所草創1300年には年数が合わないが、細かいことは気にしない。過去に何度も三十三所の入れ替えが行われてきたことは周知の事実であろう。
源算上人は比叡山横川の恵心僧都(源信)に師事して、47歳で当山に入り、小堂に自作の千手観音を本尊として奉安される。
「はじめこの地を選んだ時、山が険しいので苦労していると、猪がたくさん現れて、踏みならしたという言い伝えがあり、今でも猪が飛び出しそうな深山である。」(白洲正子「西国巡礼」講談社文芸文庫p103)

 

善峯寺の本尊・千手観音は観音堂(本堂)に奉安されているが、ほかに阿弥陀堂、釈迦堂、薬師堂、鐘楼堂、護摩堂、経堂などの建物がある。それぞれの建立年度を古い順に並べると、
阿弥陀堂 寛文13年(1673)
鐘楼堂 貞享3年(1686)
護摩堂 元禄5年(1692)
観音堂(本堂) 元禄5年(1692)
薬師堂 元禄14年(1701)
経堂 宝永2年(1705)
釈迦堂 明治18年(1885)

貞享3年(1686)建立の鐘楼堂から護摩堂、観音堂(本堂)、薬師堂、経堂までが桂昌院が係わったとされるお堂である。

 

たまたま、善峯寺を訪れた6月16日は6月の第3日曜日にあたり(桂昌院忌が行われる日)、文珠寺宝館には多くの人が参集し、桂昌院ゆかりの御物が多く出品されていた。

 

 

 

たらちをの願いをこめし寺なれば 我も忘れじ南無薬師佛(桂昌院)

京都に住む本庄氏は当山薬師如来に一女子を得ることを願い、寛永4年(1627)に女子が生まれ、その子はのちに徳川5代将軍の生母桂昌院となる。


「たらちを」とは実父のことで、将軍の生母となってからも父の薬師信仰を忘れず、上記の歌を献ぜられた。桂昌院は宝永2年(1705)に亡くなっているので、当時としては長命の79歳まで生きたことになる。また、八百屋の娘だったというのは、後の時代の創作「玉輿記」(1781年)ではないかと思われる。


亡くなる3年前、桂昌院が後楽園を訪れるに際して、将軍綱吉のご高齢の生母にもしものことがあってはいけないと水戸徳川家は忖度して、園路の大岩、大石を取り除き階段を設けて歩きやすくし、深山幽谷の「小廬山」の雰囲気をずいぶん損傷したと「後楽(園)紀事(1736年)」にある。この場合の「小廬山」はオカメザサで覆われた現在のものではなく、清水観音堂のあったあたりを指すものと思われる。

 

十輪寺(なりひら寺)にて

大原や小塩の松も今日こそは 神代のことも思ひいづらめ(伊勢物語・古今集)
これは在原業平が、二条の后が大原野神社に詣でた時、昔の情事を思い出して詠んだ歌である。

 

善峯寺からの帰りがけに、十輪寺というお寺の前を通ると「業平の墓」と書いた立札があったので、寄ってみた。ささやかなお寺だが、風情のある場所で、後ろの山には在原業平の墓の他に塩を焼いたという「塩竈」の跡が奇麗に復元されていた。
はるばる難波の海から、潮を運んで焼いたという伝説は、業平にも「融の大臣」<注>にもあるが、いかにも一代の遊士らしい贅沢さがある。

<注>融(とおる)の大臣(おとど)
融(とおる)は能の演目の一つで、作者は世阿弥とされる。
平安時代の左大臣源融とその邸宅「河原院」をめぐる伝説を題材とする。生前の融が奥州塩竈の光景を再現しようと、難波の浦からわざわざ海水を運ばせ、庭で潮汲み・製塩を行わせていた故事を語る。しかし融の死後は跡を継ぐ人もなく、邸宅も荒れ果ててしまったといい、老人は昔をしのんで涙を流す。

京都五条大橋の南すぐ、高瀬川沿いに源融河原院跡の案内板が出ていて、周囲は昔の花街の雰囲気が今も残っている。
融の大臣は光源氏のモデルともいわれている。小石川後楽園には昔「河原書院」があったので、謡曲「融」は知っておいていいだろう。


正徳6年(1716)建立の山門(楼門)

ここで500円入山受付でパンフレットをいただく。

 

元禄5年(1692)建立の観音堂(本堂)

本尊千手観音は仁弘法師御作で西国二十番の本尊。

 

元和7年(1621)建立の多宝塔。

国の重要文化財に指定されている。

 

薬師堂の近くに桂昌院の銅像があり、お約束の子犬がひざ元にきている。このあたりからの京都市街の眺めはいい。

 

正面に見えているのが比叡山。

京都市街が一望できる。

 

熊出没注意の看板を尻目に、こんな台風で倒れた木々の下をくぐるようにして一時間ほど、ポンポン山に到着する。

 

高槻市方面を望遠で一枚。

100メートル以上の高層ビルが4棟、80メートルが2棟。

奥を流れている川が芥川か?

 

可憐なスイレンの咲いた庭を過ぎる。

 

最近復元された塩竈の跡。

大原や小塩の松も今日こそは 神代のことも思ひいづらめ

 

なりひら寺の書院の庭は不思議な空間。

庭の西側は古代のストーンサークルのような雰囲気だ。

 

庭は「三方普感庭」という。

大きな三石は過去、現在、未来を表現するもので……

 

色違いの白砂が銀河系星雲のように見えてくる。

江戸時代の庭園は自由で面白い。

 

平成11年(1999)建立の文珠寺宝館

桂昌院ゆかりの御物が展示されていた。開館日注意。

 

桂昌院お手植えの「遊龍の松」五葉松。天然記念物。

樹高2.3メートルで、左右に伸びた枝は37メートルに及ぶ。

 

アジサイが見ごろを迎えていた。

奥に見える懸崖造りの建物は幸福地蔵堂。

 

蓮華寿院旧跡庭園から見た薬師堂。

たらちをの願いを込めし寺なれば 我も忘れじ南無薬師佛

 

善峯寺北門を出て、三鈷寺を拝観してから山道へ。

やがてポンポン山の標識が見えてくる。

 

ポンポン山の頂上の標識は壊れて判読困難。

ポンポン山標高678.9メートルと書いてあったのだろう。

 

釈迦岳を経由して下山。

十輪寺へ向かう。こじんまりとしたいい寺だ。

山門も風情がある。

 

在原業平はこの寺で亡くなった。

 

達筆な案内板。

復元して数十年経過していると書いてある。

 

庭の東側は三尊石組みの変形で、宇宙を感じさせる。

寛延3年(1750)本堂再興の際に造園された。

 

書院で寝そべってみるとこんな感じになる。

左側になりひら桜(樹齢200年)の幹が見えている。

 

田植えの終わった水田。

こんな里山風景に癒されるのは、日本人の尻尾がまだ残っているからだろう。