穴太寺(あなおうじ)の本坊書院庭園。

枯滝石組みの右手奥に蓬莱石だろうか?繁茂する植栽が石組みを見にくくしている。

多宝塔が借景といったところだろう。

 

 

第21番「穴太寺(あなおうじ)」

 

例によって白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。
「本坊の前にもいい庭があって、そこからは正面に愛宕山が望めた。むろん京都のそれではなく、丹波の愛宕である。住職の話によると、はじめお寺はその山の上にあったのを、いつのころにか平地に移されたという。そういうお寺は今までにも多かったが、ここでは庭を通して、山上が拝める形になっており、借景というものの原型がよくわかるような気がする。」
「私たちの祖先は、実に長い間、石を拝んできた。愛してきた。そういう長い付き合いの中から、石の言葉が生まれた。石庭とは、そういうものではなかったか。竜安寺も圓通寺も、今では有名になりすぎて、私たちは近視眼的になっているけれども、庭を通して神を拝むという本来の目的を忘れたら、石庭は成り立たない。」

 

いつもの核心をぼやかす記述ではなく、いつになく言いたいことを素直に表現しているのは白洲正子さんとしては珍しいと思う。

 

日本の庭園文化のはじまりは、磐座(いわくら)への祭祀であると言われている。石を立てることが、神々を創造することにつながる。

 

私がそのことに気づき、慄然としたのが、重森三玲の晩年の作庭である松尾大社の「上古の庭」「曲水の庭」である。

 

 

 

「上古の庭」では神々の饗宴を石を立てることで展開しており、「曲水の庭」では神々に見守られながら、曲水の宴を楽しむ日本人を優しい神々の視点から表現しているように思われる。そこに神々は生きているか、今も重森三玲に問いかけられているように感じる。

 

菩提山穴太寺は、慶雲2年(705)、文武天皇の命で大伴古麿によって開かれた。当初は薬師如来を本尊としていたが、約250年後に聖観世音菩薩も祀られるようになった。
薬師如来の他、本堂の一隅に安置される布団を被った釈迦涅槃像「なで仏」も信仰を集める。
本堂内は撮影禁止(大体のお寺がそう)。体の悪い場所を「なでる」と、痛みが軽減されるとのことで、右足をなでた。

 

穴太寺の2軒先に円山応挙の生誕地があると寺のお内儀さんが言うので行ってみたが、目印になる「円山応挙誕生地」碑が2015年秋頃に撤去され、何もない。多分ここだろうと写真撮影をしたが、写真を撮って良かったのか悪かったのか、なかなか難しい。

 

安行山(標高260m)平和台公園の展望台からの眺めが素晴らしいと聞いてきたので、穴太寺を出発して一時間余り、展望台と磐栄(いわさか)稲荷宮へ到着。そのあと道を間違えて9号線を京都方向に延々歩き続け、「なで仏」のご利益で引っ込んだ足の痛みが、酷くなってしまった。

 


穴太寺の仁王門。

阿吽の仁王像が左右に見えているだろうか。

 

薬師如来のお前立。

 

白洲正子さんの言う借景の「愛宕山」を拝む庭というのは、この庭のことだろうか。

 

(推定)円山応挙生誕地の現在。

モダンな建築物が建っていた。

 

安行山(標高260m)の展望台からの眺め

 

磐栄稲荷宮。

 

池に朱塗りの橋が架かっていて…

 

亀山城跡は大本教の境内地になっている。

大正8年(1919)に大本教に譲渡された。

 

(参考)上古の庭

中央左寄りの2柱が大山咋神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を表す。神々の饗宴である。

 

穴太口のバス停で降車したため、寺まで10分ほど歩く。

丹波の愛宕山はどれだろう?

 

観世音菩薩のお前立。

 

スイレンが咲いていた。

この日は9時前に穴太寺に到着している。

 

磐栄(いわさか)稲荷宮への参道(山道)。

磐栄は磐境(いわさか)と同義語であろう。

 

安行山(標高260m)の展望台からの眺め

 

他にも神々が祀られている。

 

その先に三尊石組み。苔むした礼拝石まで見える。

 

お濠から亀山城を見る。

大本教の宗教弾圧の歴史は、作家の好奇心を刺激した。

 

(参考)上古の庭

2柱の神は互いに寄り添い、接触面から命の清水が流れ下っている。清水は里に春が来たことを告げ、やがて田の神となり、豊饒の海(稲穂)を出現させる。