第28番「成相寺」

朱塗りの五重塔は平成に入って復元された。高さ約33m。

 

 

第28番「成相寺」


成相寺は日本三景天橋立を眼下に望む景勝地にあり、真応上人開基または聖徳太子とも伝えられています。元々は日本古来の山岳宗教の修験場で、日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つとして信仰を集めてまいりました。成相寺が開かれた年は不明なところが多いですが、いにしえより願いが叶う寺として全国に広まり、慶雲元年(704)に文武天皇の勅願寺となりました。本尊は身代わり観音、美人観音として名高い聖観世音菩薩です。(成相寺パンフより)

 

いつものように白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。
「日本の文化は、必ずいい景色のところに育っているが、雄大と繊細をかねたこの辺の風景が、古代人の心に及ぼした影響には、はかり知れないものがあると思う。橋立の美しい松原は、そのまま自然の参道を形づくって、丹後の一宮へ導いていくが、そこからさらに成相へつづいているのは、さながら一つの思想の風景画のようにも見える。」
「播磨から丹後にかけては和泉式部の遺跡が多い。式部の夫保昌は、丹後の国司であったから、この辺に居たことは事実らしい。墓も塚も井戸も、住居の跡まで残っている。それにしても、これほど人気のあった女性はないようだが、柳田国男氏によれば、式部の伝説は、熊野の比丘尼や旅の歌い女によって、日本全国にばらまかれたという。」


「大江山の歌にも、そういうひびきがある。子式部の即興歌とか、和泉式部の代作とするより、むしろ詠み人しらずの旅人の歌とした方が、感じがあるのではないだろうか。天橋立への道は遠い。ほんとうに遠いところにある。千年を経た今日でも、そういう人間の嘆きに変わりはない。」

 

白洲正子さんの文章は明治生まれの知識人に共通の「常識」を前提に書かれているので、戦後教育を受けた私たちには難しくわかりにくく感じられることが多い。私たちはそれを書き手側の問題とする傾向が強いように思うが、読み手側も理解するためにそれ相応の努力を必要とすると思う。
まず「古事記」「小倉百人一首」などは明治生まれの知識人共通の「常識」と考えていいだろう。


白洲正子さんの言う「さながら一つの思想の風景画」とは「美しい日本の風景が自然崇拝的な古神道を生み、そこからさらに大陸から入って来た仏教が山岳信仰と結びつくことによって、成相寺のような山岳寺院を、ひいては修験道につながる思想を形作っていった。」というように解釈できる。

また、「大江山の歌」と書いて、歌の中身に触れないのは、当時の常識として次の歌を念頭に置いているからだろう。


大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天橋立(子式部内侍)

 

 

 

あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢うこともがな(和泉式部)

 

小倉百人一首には和泉式部(子式部内侍)や天智天皇(持統天皇)など、10組以上の親(子)の歌が散りばめられている。藤原定家が意図したものかどうか分からないが、調べた人によると18組35人だそうだ。
子供の頃、正月に親戚の家へ行くと「百人一首」をやっていたようだが、私は馬鹿にして参加しなかった。今から思えば残念なことをしたと思う。おかげで60歳を過ぎてから「古事記」を読み、「百人一首」を調べる羽目になってしまった。

 

京都おかき専門店「長岡京小倉山荘」のホームページから引用する。
「ある日、子式部内侍は歌合(歌を詠みあう会)に招かれますが、その頃、母の和泉式部は夫とともに丹後の国に赴いており不在でした。そこで、同じ歌合に招かれていた藤原定頼が、意地悪にも「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや」と尋ねました。代作疑惑のことを皮肉ったのです。そこで、子式部内侍が即興で歌ったのがこの大江山いく野の道の遠ければ……です。」
これは「十訓抄」「古今著聞集」に収録されている話で、鎌倉時代に成立したとされている。物語であり、史実とは違うとよく引き合いに出される。一級史料(直接本人から聞いて書き留めた)ではないので、扱いには注意が必要だ。
「子式部内侍と藤原定頼はすでに出来ており、代作疑惑を打ち消すために、示し合わせてこのようなパフォーマンスをしたのではないか」という説もある。子式部内侍は1025年に20代後半で亡くなっており真偽は分からない。子式部内侍が亡くなった時、和泉式部は存命で娘の死を悼んで次のような歌を詠んでいる。(第27番「圓教寺」でも紹介しているので、参考にしてください)

 

とどめおきて誰を哀れと思ふらむ 子はまさるらむ子は憎(まさ)りけり

 

子式部内侍には幼い子がおり、和泉式部から見れば孫の不憫さにも心を痛めたことだろう。和歌の意味は正確には分からないが、和泉式部―子式部―子供(孫)の関係性を同じ音(まさるらむ・まさりけり)で表現したものと思われる。それ以上の解釈は難しくて門外漢の私には無理だ。

 

第27番「圓教寺」から第28番「成相寺」へは、昔の巡礼の人々は徒歩で大江山を越えてはるばる120キロメートルを踏破したのだろう。その心持はどういうものか現代の私たちには想像もできない。大江山に鬼(酒呑童子)が出るのも「むべなるかな」である。

 


通天橋ならぬ小天橋(しょうてんきょう)。

船を通すために橋を90度回転させることができる。

 

大天橋からの景色。

朝早かったので、まだ日差しが弱い。

 

天橋立神社。

近くに真水が湧く磯清水と呼ばれる井戸があるので、磯清水神社と言われてきた。

 

全長2.6キロメートルの天橋立の砂州を渡りきると、元伊勢大神宮籠(この)神社に出る。奥宮には磐座がある。

 

ケーブルカーで登った先に笠松公園があり、絵葉書のような写真が撮れる。

 

一願一言地蔵。

約650年前に造られたという。

 

安永3年(1774)に再建された本堂。

もともと山頂直下に本堂は建てられていたという。

 

徒歩で下山する途中、いくつか仏堂・仏像を見かけた。

信仰が生活に根付いていることがうかがえる。

 

小天橋を渡ると右側に昭和天皇行幸の碑が立っている。

さらに先に進むと、大天橋がある。

 

景観の雄大さは人物を入れて撮影するとよくわかる。

ご夫婦と思われるが……

 

羽衣松。

羽衣伝説は日本全国にある。元々は秦の始皇帝をだまして金銀財宝をせしめた徐福に由来する。

 

上古から現代まで連綿と続いている気配は貴重なものだろう。パワースポットなどど軽く言わないでほしい。

 

笠松公園からバスで成相寺山門の先まで運んでくれる。

この階段を上りきると本堂だ。

 

木陰にある聖観音立像。本堂のお前立観音もすぐ触れるところまで近づいてお参りできる。

 

本堂の脇にある石仏群。

今でも篤い信仰がうかがえる。

 

下山道を間違えたおかげで、丹後国分寺跡に出た。

これも観音様のお導きでありましょう。